ワイスピにも使われた若手ラッパー JP THE WAVY(ジェーピーザ ウェビー) について
今回は、神奈川県湘南市出身のラッパーJP THE WAVYを紹介する。
彼は、2017年にYouTubeにアップロードした「Cho Wavy De Gomenne」発表し、今に至るまでヒット曲を出している。
2021年に発表した「Bushiodo」はFast & Furious 9(ワイルドスピード9)のサウンドトラックに使われている。
そんな彼を紹介していきたい。
目次
1・JP THE WAVYのプロフィール
2・JP THE WAVYがラップを始めたきっかけ
3・JP THE WAVYのファッション
4・JP THE WAVYの愛用ブランド
5・JP THE WAVYは彼女いる?
6・JP THE WAVYのタトゥー
7・JP THE WAVYのおすすめ曲
1・JP THE WAVYのプロフィール
- 活動名 JP THE WAVY(ジェイピー・ザ・ウェイビー)
- 生年月日 1993年
- 身長 165㎝
- 出身地 神奈川県平塚市
- 血液型 非公開
JP THE WAVYは神奈川県湘南で生まれた。 彼は幼いころから父親が流していた音楽に興味を持ち、小学生時にはバンドをやっていた。
2・JP THE WAVYがラップを始めたきっかけ
JP THE WAVYは小学五年生の時にコマーシャルで流れてきたEMINEMのLose Yourselfを聴き、衝撃を受けたのがラップに興味を持ったきっかけだ。しかし、その時はまだラッパーになろうとは思っていなく彼がラッパーになったのは18歳の時だ。
彼が中学生のころはギャル男でダンスをしていたそうだ。
↓ EMINEM Lose Yourself
3・JP THE WAVYのファッション
JP THE WAVYのファッションは以前、私のブログで紹介した若手ラッパーLEX(レックス)のように10代、20代といった若年層に受けている。
makeapeacefulworld.hatenablog.com
JP THE WAVYは自身のファッションについて、新しいネオギャルと称している。
新しいネオギャルとは何か。 「ヒップホップヘッズやオシャレな子たちが手を出しそうで出さない」「派手」というこの二つが新しいネオギャルの定義だ。
4・JP THE WAVYの愛用ブランド
JP THE WAVYは先ほど述べたように、ファッションに対して物凄いこだわりを持っている。彼がよく着ているブランドは、A BATHING APE、READY MADE
、BILLIONAIRE BOYS CLUB、ICE CREAM、KAPITAL、INARI、HUMAN MADE
、CHROME HAERTS などを主に着ている。
5・JP THE WAVYは彼女いる?
JP THE WAVYの彼女は、モデルのNiina(遠藤 新菜)だ。
彼女の父親はイギリス人とアイルランド人のハーフで、母親は日本人。美しい顔立ちをしている。
彼女は多数の映画やドラマに出演している。JP THE WAVYと同棲しており、仲睦まじい様子が投稿されている。
6・JP THE WAVYのタトゥー
JP THE WAVYは体中にワンポイントタトゥーが入っている。彼はノリでお洒落なタトゥーを入れている。 彼の左肩には、マハトマ・ガンジーの格言と時計が入っている。
その格言の意味は「明日死ぬと思って今日生きろ、永遠に生きるように毎日学べ。」といった意味だ。
7・JP THE WAVYのおすすめ曲
謎多き若手ラッパー$moke og
最近ラップ好きの間で、話題になっている$moke og。そんな彼について今日は紹介していきたい。
・目次
・1 $moke og のプロフィール
・2 ラップを始めたきっかけ、自身のラップスタイルについて
・1 $moke ogのプロフィール
- 活動名 $moke og
- 本名 非公開
- 年齢 22歳
- 出身地 東京都 町田市?
- 身長 非公開
- 血液型 非公開
- 学歴 非公開
キャリア初期には高校ラップ選手権にnoZuというステージネームで出場している。
・2 ラップを始めたきっかけ、自身のラップスタイルについて
$moke ogがラップを始めたきっかけは、友達にクラブに連れていかれたのがきかっけだ。 地元町田はレゲエのイベントが多く、そこでレゲエを聴きそのカルチャーに興味を持ったようだ。
$moke ogはインタビューで自身のラップスタイルについてこう答えている。
自分のラップスタイルの特徴はどんなところですか?
聴いていて気持ちいフローを作るっていうことが重要で、そのうえで自分にしか吐けないライムを吐くことが大事だと思っています。
影響を受けた人物は?
Nas、Jadakiss、Cam'ronとかはもちろん好きです。 引用元$MOKE OGインタビュー『フッドに影響を与えられる存在になるのが直近の夢』|レッドブル (redbull.com)
$moke ogはラップに対してこだわりを持ち、謙虚に取り組んでいることがわかる。彼が影響された人物に90sの東海岸のラッパーNasがいる。
最後に、$moke ogは若手ラッパーの中で能力が一番高いと筆者は感じている。$moke ogの90sスタイル、ビートが筆者は好きである。そんな$moke ogを読者に伝えたくこの記事を書いた。
LEX(レックス)プロフィール 若き天才ラッパー
LEXは神奈川県湘南市出身のラッパー。彼は、現代のヒップホップシーンにおいて、10代や20代の若年層から支持を得ている。そんな彼は、まだ10代!!だ。
特に、彼のファッションに憧れる人も多く、最近よく彼のファッションをまねた人を見ることが多い。
そんな次世代のラッパーLEXについて話していきたいと思う。
目次
1・LEXのプロフィール
・LEXの名前の由来
・LEX愛用ブランド
・LEXのタトゥー
・LEXに彼女はいる?
・LEXの趣味
2・LEXの過去、経歴
・Rapを始めたきっかけ
・デビューアルバム
3・LEXと仲のいいラッパー
4・LEXのおすすめ曲三選
1・LEXのプロフィール
- 活動名 LEX
- 本名 非公開
- 生年月日 2002年5月1日
- 出身地 神奈川県湘南市
- 身長 180cm
- 血液型 非公開
- 学歴 高校中退
LEXは神奈川県湘南市に生まれ、三人兄弟の真ん中として育った。姉はダンス講師、妹はLanaという名義でアーティスト活動をしている。
- LEXの名前の由来
二番目の父の名前である、レックスからとったそうだ。LEXの実の父は、彼が生まれたときには居なかった。その後、小学生の時に新しい父と暮らすようになった。しかし、新しい父は次第に母に暴力を振っていった。
なぜ、そんな憎たらしい父親と同じ名前にしたのかと疑問に思うだろう。それは、そのことを忘れずに、母親を守る気持ちの表れだ。
- LEX愛用のブランド
LEXはキャップにブランドT-shirts、腰パンで典型的なストリートファッションだ。ブランドも、GUCCIやLouis VitonなどのハイブランドやNEW ERAやPUNK DRUNKERSなどのストリートブランドも着ている。LEXは服好きで、毎月20万を服に使っているそうだ。 LEXの個性的なファッションは若年層に受けており、自身のインスタグラムには、「お洒落」や「イケてる」などのコメントが寄せられている。
- LEXのタトゥー
LEXの体には、たくさんのタトゥーがある。首に大きな蝶のタトゥー、お腹にはアナーキーマークのタトゥーが入っている。それらは、当日に友達から送られてきて写真をもとに入れたと言っている。
右腕の「flower」と書いてあるタトゥーは、音楽を始めたときに付き合っていたイギリス人の彼女が死んでしまい、その子のために歌った「flower」という曲のタイトルを入れたそうだ。
腕と胸とお腹のタトゥーは、女友達に入れてもらったそうだ。
- LEXに彼女はいる?
2021年12月現在、彼女はいません。
インタビューなどでは、先ほど話した当時付き合っていたイギリス人の彼女のことを語っています。
- LEXの趣味
LEXは映画鑑賞が好きで、「バタフライ・エフェクト」や「インセプション」、「ロミオとジュリエット」などが好きだそうだ。
また散歩も好きで、中学三年生のころからアイディアが生まれるということで散歩をしているそうだ。
2・LEXの過去、経歴
- rapを始めたきっかけ
LEXの母親はレゲエが好きで、LEXがお腹の中にいるときも聴いていた。そして、母の影響で三歳の時にダンスを始めた。しかし、LEXは家は貧乏で保育園時代には、そのことでいじめれ保育園の親からは「遊ぶな」「汚い」と暴言を吐かれていました。
そんな人たちを見返すために音楽を始めたそうだ。
- デビューアルバム
コツコツと楽曲発表して注目されていくようになったLEX。
デビューアルバムの発表は大きな注目を集めまた
デビューアルバム「Lex Day Games 4」は、2019年4月26日にリリースされ、このアルバムでは未来的なサウンドにフォーカスをしていて、LEX本人もネオい感じにしたと語ってる。
アルバムのテーマはジャケットのアートワークにも現れていて、映画の「レディ・プレイヤー1」にインスパイアされて制作された。
3・LEXと仲のいいラッパー
LEXは今、勢いがあると注目されているラッパーと仲がいい。例えば、kZmやJP THE WAVYなどと仲がいいです。 よく、SNSに一緒に写っている写真などがアップされています。
3・LEXのおすすめ曲三選
gangsta rapのゴッドファーザーN.W.A.
N.W.A.
右からDr.Dre(ドクタードレ)、Dj yella(ディージェーイェラ)、Eazy-E(イージーイー)、Mc Ren(エムシーレン)
前回、紹介したDr.Dre(ドクタードレ)が1986年から、1992年まで所属した伝説の
グループN.W.A.(エヌダブリューエー)を紹介しよう。
目次
1 N.W.A.について
2 N.W.A.の凄さについて
3 N.W.A.の曲紹介
1 N.W.A.について
N.W.A.ファーストアルバム Straight Outta Compto(ストレイトアウタコンプトン)
N.W.A.は1996年にアメリカのカリフォルニア州コンプトンで結成されたHiphopグループである。西海岸の伝説的なグループとしてヒット曲を生み出してきた。しかし、メンバー内の売上金の着服疑惑などメンバー同士確執が生まれ1989年、主要メンバーのIce Cube(アイスキューブ)が脱退し、1992年にはDr.Dre(ドクタードレ)までもが脱退した。
N.W.A.の歌詞はコンプトンと呼ばれるアメリカで一番犯罪率が高い地区を題材としており、コンプトンの日常やドラッグ、暴力、セックス、銃、警察など過激な表現多い。
そのため、N.W.A.の攻撃的な歌詞を受け、犯罪率が上がるなど社会問題に発展した。
特に、N.W.A.の代表曲「F*** The Police」ではFBIから警告が届くほど過激であった。
2 N.W.A.の凄さについて
なぜ、N.W.A.がここまで有名になったか それはメンバー全員の才能、カリスマ性だと私は考える。これは私の考えだが、Hiphopの中でN.W.A.のメンバーEazy-Eはカリスマ的存在でありビジネス天才であった。それに、Ice Cubeはリリック(歌詞)の天才であり、Dr.Dreはビートの天才であった。Mc Renも歌詞を書ける、Dj Yellaもビートを作れる。そんな環境であれば、名作が生まれるに違いない。Dr.DreのビートにIce Cubeの歌詞を乗せ、それをEazy-Eが局に売り込む。そのパターンがN.W.A.を有名にしたと思う。
N.W.A.の主要メンバーであるEazy-Eは独読な雰囲気や話術があった。そのため、相手と交渉するときに相手を冷静にさせなかった。それは、Eazy-EがN.W.A.に入る前、麻薬の売買で生計を立てていたころに培われたものだと思う。彼は身長が159cmしかなく、ギャングやマフィアを相手するには厳しかった。そのため、こういうところが磨かれたのではないのか。
N.W.A.の物語は映画化されている。全米興行収入3週連続一位を記録した。これは、社会現象かの超大ヒットである。
ストレイト・アウタ・コンプトン - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画
3 N.W.A.の代表曲について
N.W.A.の曲で代表的なのは Straight Outta Comptn
F*** The Police
Dope man
HIPHOPのレジェンド Dr.dre(ドクタードレー)の歴史 後編
Dr.Dre
目次
1 After Math(アフターマス)時代
2After Math(アフターマス)時代 pt.2
3 Beats 創業
1 After Math(アフターマス)時代
1996年、Dr.DreはDeath Row(デスロウ)を脱退し、suge knight(シュグナイト)とも決別した。理由としては諸説あるが、Hiphop東西戦争が最悪な形で終わり、Death Row所属の2Pac(トゥーパック)が撃たれ亡くなったことが関係したとも言われる。他にも、Suge Knight の悪事に腹が立ち、やめたとも言われている。
Death Rowを脱退したDr.Dreであったが、新たにAfter Math(アフターマス)というレーベルを立ち上げた。Death Rowに居たころとは違い、暴力的なgangsta rap(ギャングスタラップ)をやめ、新しいステージへと進んだ。
しかし、1992年に出し、グラミー賞を受賞したThe Chronic(ザクロニク)のような勢いは無く、Dr.Dreの時代は終わったのではないかと言われていた。
右から、Eminem(エミネム)、Dr.Dre(ドクタードレ)
そんなか、1998年、一人の人物と出会う。それは今や世界を代表するEminem(エミネム)だった。しかし白人であった。(なぜ白人だといけないのかというと今までHiphopは黒人のカルチャーであったためだ。)だが、Eminemは唯一無二のスキルを持ち、ダイヤの原石であった。それらを気にすることなくDr.DreはEminemをプロデュースした。 それもあり、Eminemは1999年、先行シングル「My name is]を経て、After Mathからアルバム「The Real Slim Shady LP」を出した。このアルバムは2000年のグラミー賞のベスト・ラップ・アルバム部門を」受賞と、収録曲「My Name Is」による、ラップ・ソロ・パフォーマンスの受賞で二冠を達成した。
Eminemのデビュー作 My name is
2After Math(アフターマス)時代 pt.2
Dr.Dre(ドクタードレ)、Snoop Dogg(スヌープドッグ)
1999年、Dr.DreはAfter Mathから自身のセカンド・アルバム「2001」を出した。1992年ファースト・アルバムの「The Chronic」からは二年ぶりである。このアルバムは2015年八月現在、780万枚を売り上げたアルバムである。 先行シングル「Still Dre」からセカンドシングルの「The Next Episode」のタイトルから「まだDre、次のエピソードに進む」というメッセージがあり、もうDreは終わったのではないかという世間に対して、アンサーを返したとされる。
読者も「Still Dre」、「The Next Episode」は一度は聞いたことがあると思う。
このアルバムを通し、業界のトップに帰ってきたDr.Dre。最近の2015年にはサード・アルバムの「compton」を出している。
3 Beats 創業
Dr.Dreは曲の制作を一時中断し、ヘッドフォンの制作に力を入れていた。メーカー名は「Beats By Dre(ビーツバイドレー」である。 Dr.Dreだからということもあってか、世界中で大ヒットした。読者も」知っているであろう。ヘッドフォンを大量に売った後は、HTCに売却した。それもあり、有名人長者番付ではランキング五位になった。全米でも有数の大金持ちとなった。推定資産約900億円となったのだ。アメリカの犯罪都市、コンプトンから成りあがったのだ。
HIPHOPのレジェンド Dr.dre(ドクタードレー)の歴史 前編
Hiphopを語るうえで欠かせないのがDr.Dre。読者も知っているであろうヘッドホンメーカーBeatsもDreが作ったメーカーである。
Beats
目次
1 The World Class Wreckin’ Cru(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代
2 N.W.A(エヌ・ダブリュー・エー)時代
3 Death Law(デス・ロウ)時代
1 The World Class Wreckin’ Cru(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代
Dr. Dreの地元は、カリフォルニア州のコンプトンという地区であり、カリフォルニア州最大の都市、ロサンゼルスの南側に隣接している。
コンプトン地区は、アメリカでもっとも犯罪率の高い都市のひとつと言われている危険な地区。この場所でDr.DreはHiphopを始めた。
18歳のころ(おそらく1983年前後)、加入していたThe World Class Wreckin’ Crew(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)というグループから、作品をリリースした。
その後も、いくつかの作品を発表したが、メンバー内の金銭トラブルによって、Dr. DreとDJ Yella(イェラ)がグループを脱退。事実上、グループは消滅した。
2 N.W.A(エヌ・ダブリュー・エー)時代
N.W.A.
1986年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)と、DJ Yella(DJイェラ)、Ice Cube(アイスキューブ)、Mc Ren(エムシーレン)、Eazy-E(イージー・イー)は、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)を結成。
Dr. Dreは、World Class Wreckin’ Crew(ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代の経験を活かし、楽曲を制作したり、ラップをして、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)に貢献した。
精力的な活動を続け、やがて、N.W.A.は、コンプトンを象徴するほどのヒップホップ・グループとなった。
コンプトン出身のグループとあって、N.W.A.が描く歌詞の内容は、過激なものばかり。その暴力的な歌詞の数々は、コンプトンの不良たちを刺激し、コンプトンの犯罪率を引き上げたとも言われている。
N.W.A.の代表曲といえば Straight Outta Compton
N.W.A.のメンバーであるEazy-Eがグールプのギャラを他のメンバーより不正に多く取得している疑惑浮上し、メンバーの確執を生んだ。
それが原因なのかは定かではないが、1988年、Arabian Prince(アラビアン・プリンス)が脱退し、翌年の1989年、Ice Cube(アイスキューブ)も脱退する。 そして1991年、とうとうDr.Dreまでも脱退してしまった。そして、その勢いのままN.W.A.は消滅し、事実上の解散となった。
3 Death Law(デス・ロウ)時代
Dr.DreはN.W.A.脱退後、Suge knight(シュグ・ナイト)と共にDeath Row Records(デスロウレコード)を設立した。1992年春に初のソロ・シングル「ディープ・カバー(Deep Cover (AKA 187))」を発表した。このシングルは、スヌープ・ドッグとの共演の始まりとなった。スヌープは、同年発表のドレーのソロデビューアルバム『The chronic』でも大々的にfeat.された。同アルバムは「ナッシン・バット・ア・G・サング(Nuthing But A 'G' Thang)」、「ファック・ウィズ・ドレー・デイ(**** Wit Dre Day (And Everybody's Celebratin'))」、「レット・ミー・ライド(Let Me Ride)」などのヒット・シングルを生み出し、マルチ・プラチナ・アルバムとなり、歴史上最も売れたヒップホップアルバムの一つとなった。グラミー賞において2部門にノミネートされ、ベスト・ラップ・ソロ・パフォーマンス賞を獲得した。
しかし、デスロウレコードは90sに物議を醸すレーベルであり、悪いうわさが絶えなかった。
デスロウレコードは、世界的に有名なTupac shakur (トゥーパック シャクール)
などが所属していた。
左から suge knaight, 2pac, snoop dogg
後編に続く.....